いのちをありがとう|赤ちゃんの沐浴はスキナベーブ

文字サイズ

  • 標準
  • 大

持田ヘルスケア株式会社

エッセイコンテスト

スキナベーブ 赤ちゃんエッセイコンテスト

【第11回】~ 赤ちゃんがくれるチカラ ~

特別賞

・いのちをありがとう

三浦由香
愛知県  助産師  48歳

「不良妊婦だね。特に由美の時は・・・」
母から母子手帳をみせてもらい、私が最初に言った言葉だ。
その時私は、助産師1年生、助産師の免許をとって地元総合病院の産婦人科に勤務していた。母と片付けをしていたら、私と妹の母子手帳が偶然出てきた。妊婦さんに普段保健指導を行なっているので、母子手帳の内容を見れば、妊娠中の状況がすぐわかる。私の母子手帳には、体重増加が激しかったり、尿にたんぱくが出ている時がある。妊娠中、そんなに注意してなかったんだろうな、等と思いながらページをめくっていた。出産は帝王切開だった。私の頭の回旋と骨盤の大きさが合わず、分娩が進行しなかったためだ。現在の周産期死亡率は、約3.3(1年間の1000出産に対する妊娠22週以後の死産と早期新生児死亡の合計の比率)であり、昭和30年代はその10倍以上もあったため、命があっただけで十分と思わなければいけないのかもしれない。ふと妹の母子手帳をみると初診が6カ月末だった。
「お母さん、由美の時に初診が6カ月の終わりなんてどういうこと?妊娠に気づかなかったの?」
と問いただすと、母は
「早くから知ってたよ。ただ病院に行かなかっただけ。」
と答えた。どうして行かなかったのだろう。私と妹は8歳、年齢が離れている。専業主婦の母は、私が小学校に行っている間に受診することだってできたのに・・と考えていると、母が口を開いた。
「お母さん、帝王切開だったから、3回目の帝王切開はできないって言われてたの。だから早く行くと中絶しなさいと言われるから、6か月まで待ってたの。」
私に衝撃が走った。そうだ、私と妹の間に弟が生まれていた。妊娠30週くらいで前置胎盤のため、緊急帝王切開になった。1800gの小さな男の子、私は4歳だったが、保育器に入っている弟をガラス越しに眺めていた覚えがある。1週間後に弟は天国へ旅立った。一番小さな棺でも弟には大きすぎた。父が自転車の荷台にその棺を乗せ、火葬場まで運んで行った。一緒について行った私は、幼くてその状況がつかめず、
「進くん、死んじゃったね。」
と話していたのをおぼろげに思い出す。今自分も親になり、その時の両親の気持ちが痛いほど理解できる。さぞかし辛かっただろう。その弟の出産後に、医師から、
「帝王切開はもうできません。また2度も帝王切開した方は、普通の分娩は無理です。したがって、妊娠には気をつけてください。」
と言われていた。その言葉はもう子供は無理なのであきらめなさいということだった。
「でもね、由香が一人っ子になっちゃうと考えるとね、いつかお父さんやお母さんがいなくなったときに兄弟がいれば、一緒に助け合うこともできるし、相談もできる。由香が困らないようにも、もう一人子どもがほしかったの。」
と母は静かに言った。血のつながり、心の支えを残しておきたいという母の気持ちが私の心を貫いた。
今では3回以上の反復帝王切開も可能であり、前置胎盤も早い時期に分かり、その対処もできる。1000gに満たない早産児でも育てることが可能である。しかし、昭和40年代には難しかったのだろう。手術前、父は医師に呼ばれ、
「奥さんに、3回目は危険と何度も言ったけど、子どもを産むと言ってきかなかった。頑張りますが、母子の命の保証はできません。」
と告げられた。母は自分の命と引き換えにしても、妹を産もうと決心していた。絶対お腹の子は守ると言っていたようだ。私たち家族の祈りが通じて、元気な女の赤ちゃんが生まれた。もちろん母も無事だった。その時の父の安堵とうれしさの表情は忘れない。
辛い経験を乗り越えたからこそ、喜びが増す。父母がいて、私がいて、妹がいて、1週間頑張って生き抜いた弟がいたからこそ、今の私がある。助産師になり、3人の子どもを授かり、私も年を重ねた今、この思いを両親に伝えたい。
『いのちをありがとう。』

  • エッセイコンテストのトップへ
  • 受賞者・受賞作品一覧へ