【第2回】~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
佳作
・「800gの天使から愛を」
【一般部門】
吉田 美奈子
神奈川県 主婦 33歳
出産予定日が12月だった私にとって、8月の出産は青天のへきれき霹靂でした。突然の切迫早産、緊急入院から帝王切開手術。医師からは、
「覚悟しておいて下さい。」
と言われました。
「……信じられない……」
幸せだった妊婦の日々が一転し、私は奈落の底に突き落とされた気分でした。
――800g・30・の女児――
24週と3日で生まれたその体はあまりにも未熟すぎて、まさ正に胎児そのままでした。小さな体には機械からのセンサーやチューブがたくさん取り付けられていて、sf映画でサイボーグでも造っているかの様な光景でした。
私は娘と面会するために、毎日エヌアイシーユーnicu(新生児集中治療室)へ通いました。けれども面会を終えて帰るのがいつも怖くて仕方ありませんでした。
「これが最後の面会になってしまうのでは…」
という悪い考えが頭に浮かんでしまうからでした。両方の手のひらに乗せたら余るほど小さいその体で、しかし娘は生きる事をやめませんでした。全身を揺るがすほど、心臓は大きく鼓動していました。まだ筋肉も神経も、脳さえ未熟なその体で、心臓だけは力強く脈を打ち続け、
・私、生きているよ。頑張ってるよ。・
と訴えているようでした。
何度呼吸が止まっても、チアノーゼになって全身が青黒く変わっても、娘が力尽きる事はありませんでした。そして、医師の予測をくつがえ覆し、一命を取り止めたのです。
「命が実りますように」
と願いを込めて付けた・みのり実李・という名前のとおりに。
生後2週間で両目が開き、皮膚もしっかりしてきました。危険を知らせるアラームを ひんぱん頻繁に鳴らしながら、それでも毎日少しずつ保育器の中で育っていきました。
私にとって初めは辛かった面会も、日を追うごとに楽しみへと変わっていきました。自宅でさくにゅう搾乳した母乳をお土産に、
・いつか娘を抱っこする日がきっと来る・
と信じて通い続けました。
生後約2ヶ月で体重が1・になりました。人工呼吸機が口から外され、声が出せる様になりました。生まれて初めて聞く娘の声。耳をすまさなければ聞こえない程小さな、けれどもとても可愛らしい声でした。
「みのり実李すごい。声が出せるなんて。」
私は胸が一杯になり、嬉しくて涙がこぼれてきました。毎日の面会が、もっと楽しいものになりました。
――私は初め、早産してしまった事がとても嫌でした。自分のせいで娘にはとても苦しい思いをさせてしまい、私自身も精神的にとても辛かったからです。けれども私は娘から、生命の大切さと尊さ、そして小さすぎるその体で生き抜いた力強さを教えてもらいました。私は今では、早産した体験をとても貴重に思っています。――
生後約2ヶ月半、待望の日がやってきました。娘に直接さわる事ができたのです。そして、まだウブ毛でいっぱいの体を、私の両手にそーっと乗せました。保育器からゆっくり出して、ドキドキしている私の胸に静かに抱きました。
――赤ちゃんて、何てフワフワと柔らかいんでしょう。ポカポカと温かいんでしょう。――
「あぁ、生きている。この子は確かに生きているんだ。」
と改めて実感しました。初めての抱っこは5分で終わり、娘はまた保育器へと戻りました。普段は眠ってばかりいる娘が、この時はビックリした様子で目をパチクリとしていました。
私はこの時の抱っこを一生忘れないでしょう。今でもそのぬくもりが、両手にしっかりと残っているようなのです。
生後約半年、肺疾患のため携帯酸素と一緒でしたけれど、めでたく退院となりました。2570gまで増えた体重は、私にはとても重たく感じました。お天気はみぞれ霙混じりの雨とあいにくのものでしたが、私の心は快晴でした。これからは見たい時にいつでも娘を見る事ができます。好きなだけ抱っこして、同じ屋根の下で眠れるのですから。
普通に安産をしていたら気が付かなかったかもしれません。そんな当たり前の事が、実はとても大切で、幸せのいしずえ礎なのだという事を。
――あれから2年。娘・みのり実李は笑顔を振りまく可愛い女の子になりました。私は、この800gで生まれた天使が教えてくれた愛と生命の大切さ、そして最後まであきらめずに頑張り抜く気持ちを忘れずに、これからの未来を共に生きてゆきたいと思っています。